一坪八十円、現在の四百万円以上に暴騰

2009年に開港120周年を迎えた門司港(北九州港)を拠点に、門司は明治・大正・昭和初期にかけて栄華を誇りました。門司港は明治22(1889)年に国の特別輸出港としての指定を受けると、瞬く間に、長崎港・博多港といった港を追い抜き、九州一の貿易港となりました。また、全国でも5本の指に入る貿易港となり、名実ともに国際貿易港の仲間入りを果たします。その貿易港としての地位を確立させた要因に深く関わっているのが、九州初の鉄道の開通です。

明治5(1872)年に日本発の鉄道が新橋〜横浜間に開通し、九州でも鉄道開通への気運が徐々に高まっていきました。そんな中、第8代の福岡県知事「安場保和」は「門司に港と鉄道を作り、海路と陸路を直結させれば、国運は高まるに違いない」と港と鉄道の実現に向け動きだします。そして、明治22(1889)年、まず門司港が開港。それから2年後の明治24(1891)年には、待望の鹿児島本線の起点でもあり終点でもある門司駅(現門司港駅)が開業されました。そして門司港が開港されるのと時を同じくして、三菱、三井の商社や大阪商戦などの船会社、浅野セメント工場、安田・日本・住友・三井といった銀行や郵便局が続々と門司駅(現門司港駅)周辺に進出し、門司は活気に満ちあふれていきます。大商社や銀行が先を争って門司に支店を出そうとし、地下が暴騰したのもこの時期の事です。一坪八十円、現在の四百万円以上まで騰がったことを考えると、どれだけ門司が栄えていたか容易に想像できるでしょう。

また、大里町では明治37年(1904)年に、大里製糖所(現、関門製糖)、明治44(1911)年に大里製粉所(現、日本製粉)や九州電線(現、古河電工)、明治45(1912)年に帝国ビール(現、サッポロビール)、大正3(1914)年に大里酒精製造所(現、ニッカウヰスキー 株式会社 門司工場)、大正6(1917)年に株式会社神戸製鋼所門司工場(現、神鋼メタルプロダクツ)などの会社が、鉄道の走る海岸沿いに工業地帯を形づくって行きました。 そして、大正・昭和の時代は港と駅と工場を結びつけながら、門司は産業都市に発展しつつ、栄華を極めていきます。

写真
写真