宮本武蔵と佐々木小次郎が慶長17年(1612年)4月13日に決闘をした地「巌流島」
門司港に来たことがある方にも,ない方にも一度,おすすめしたいのがディープな門司港散策です。 このような雑多な街はめずらしいのではないでしょうか。どこか寂しく,懐かしい心地がする場所。 そんな不思議な空間を感じてみては、いかかでしょうか。
手向山公園からの景色
ここ、手向山公園には宮本武蔵の死より9年後の1654(承応3)年、武蔵の養子の宮本伊織によって建てられた武蔵顕彰碑があります。碑文には武蔵の剣歴が記述され、二刀流を生みだす工夫や巌流島の決闘までの様子なども刻まれている。武蔵関係最古の記録のひとつである新免武蔵の顕彰碑、通称『小倉碑』は北九州地方第一の名碑と言われています。また、村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年には佐々木小次郎の碑が建てられています。碑には村上氏の詠んだ句が刻まれています。公園には巌流島や関門海峡、響灘まで見渡せる展望台もあります。
武蔵顕彰碑(手向山公園)
手向山公園
佐々木小次郎の碑(手向山公園)
手向山公園
宮本武蔵は、江戸時代初期の人だが、現代でも「剣豪」といえば武蔵といわれるぐらい広く知られています。数え年13歳という若さで最初の決闘に勝利して以来、28〜9歳まで、60回以上の決闘に負け知らずでした。しかも江戸時代以来、とりわけ、その二刀使い、「二刀流」という言葉は、宮本武蔵と切り離せないものとなっています。また、死の直前に著わした五巻の兵書、いわゆる『五輪書』は、兵法書、戦闘術教本としてのみならず、なぜか処世訓・座右の書としても長く読まれてきました。今では、万人向けの文庫にさえ入っているのです。武蔵は、近代において再発見された思想家のうちの一人なのです。さらに、武蔵には芸術家としての一面もあり、有名な絵画作品が多数あります。書画も愛したことは有名ですが、剣の達人・武蔵にもそうした文人の顔がありました。晩年は熊本で時を過ごし、余暇には書画を楽しみ、たくさんの作品を残しています。この頃の作品が今に伝えられているものです。
佐々木小次郎は謎の多い人物で詳細はあまり分かっていません。「二天記」によると、小次郎は越前国(福井県)宇坂ノ庄浄教寺村の出身で、富田流宗家の富田五郎左衛門入道勢源に師事していたそうです。3尺(約1メートル)の太刀を振るっているうちに長太刀の扱いが得意になり、自ら一流を興す。これが「巌流」である。との事です。そして、小次郎の代名詞「燕返し」は武芸者として諸国を放浪していたある時、周防国(現在の山口県)の錦川で空を飛ぶ燕を斬って編み出した。などと語られている。
小次郎の年齢は定かではなく、18〜70歳まで、小次郎の年齢には諸説あります。これは「二天記」の中で小次郎の年齢に矛盾が生じるエピソードがいくつかあり、そのため解釈に違いが出るからでしょう。そして、一番の謎は武蔵の自著において小次郎がいっさい出てこないことです。のちに武蔵の弟子が書いた「二天記」(武蔵の死後100年以上経った後に書かれたもの)において初めて佐々木小次郎が登場するのです。現代ではとても有名な巌流島の決闘、このことが武蔵の自著で全く語られていないとは。とても不思議です。この歴史には隠された何かがあるのでしょうか。