門司港レトロ発
巌流島連絡船というのがあります。詳しい時間、料金などはこちらでご確認ください。
武蔵の死より9年後の1654(承応3)年武蔵の養子の宮本伊織が建てた武蔵顕彰碑があります。北九州地方第一の名碑と言われています。また、村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年には佐々木小次郎の碑が建てられています。
門司港に来たことがある方にも,ない方にも一度,おすすめしたいのがディープな門司港散策です。 このような雑多な街はめずらしいのではないでしょうか。どこか寂しく,懐かしい心地がする場所。 そんな不思議な空間を感じてみては、いかかでしょうか。
武蔵小次郎
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは慶長17年(1612年)4月13日のこと。約束の時から遅れること2時間、武蔵は櫂の木刀をひっさげ素足で船から降り立った。小次郎は待ち疲れていた。小次郎はいらだち,刀を抜き放ち、鞘を海中に投げ捨てた。武蔵が近づくとともに,刀を真っ向に振り立て,眉間めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり,たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は,その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ,鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴の裾を三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ちおろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち折った。小次郎は気絶し,口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい,死活をうかがい,一礼して立ち去った。
小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。そして、まだ見開いたままの小次郎の両目から,急に,生きている光が失せていった。激しい声を上げて、新之丞が泣き出した。ギラギラと光る海を,武蔵の小舟は,東へ向かって流れを変えた潮に乗り、下関のほうへ、ひた走るように影を小さくしていった。
巌流島
この巌流島での決闘、実は武蔵の自著には一行の記述もありません。吉岡一門を倒して京を去ったあと、武蔵の消息は熊本での晩年まで途絶え、史実にも欠けます。小説などに書かれた決闘の場面は武蔵の養子、伊織が刻ませた小倉碑文や豊田景英が著した二天記などからたどったものです。
元々は小倉藩の領土で小倉側では向島、下関側では舟島と呼ばれていました。現在は下関市に属しており、正式名称を船島といいます。小次郎の流派「巌流」から名を取り巌流島と呼ばれるようになりました。
巌流島
現在、巌流島は無人島ですが昭和48年までは島民が住んでおり、コミュニティを形成していました。ピーク時の昭和30年には50軒近い家屋が軒を連ね生活をしていました。今は公園整備化され武蔵、小次郎のモニュメントや巌流島文学碑・決闘の地木碑などがあり、観光客が訪れる場所となっています。
巌流島文学碑
武蔵・小次郎・巌流島